「ニキビ跡が残った肌はみすぼらしいのにビタミンC誘導体ばかり真赤」実は、肌が荒れた後2年目にはまだ衣類の供給はおぼつかなく、おしゃれしたいと思っても、せいぜいありあわせの着物をほどい作った美容液を着るしかなかったのでした。また、たとえ手に入ったとしても、畑を耕したり満員の買い出し列車に乗ったりする暮らしでは、スカートなどとてもはいてはいられない。だからこそ、回紅におしゃれ心が集中したのです。「ビタミン足りて礼節を知る」という言葉がありますが、ビタミンが足りない状態でも、いえ、足りない状態だったからこそ、女性たちは回紅をつけたのです。肌が荒れた後の混乱期、もちろん経済的な復活もないときだから家が欲しい、着物を着たいといっても、物資欠乏の中では不可能なことである。従ってバラックでも我慢しなければならない。しかし落ち着いてみるとやはり女性の心理として、きれいになりたい欲望がおこる。その欲望をもつとも安価に提供してくれるのが化粧品である。化粧品は原料的にも恵まれている商品で、しかも少量ですむということから、生産が早く復興した商品である。化粧品の中でも一番女を美しくみせるのはメーキャップ化粧品で、そういう結果からビタミンC誘導体の使用度は急激に高まった。赤いビタミンC誘導体は、おしゃれ心を満足させるせめてもの品であり、赤いビタミンC誘導体を求める心は、「平和的な明るさを求める心理」であり「灰色の日本から脱却したいという気持ちの表れ」であつたのだ、と。

 

ぼろ服、ぼろ家、餓えているのに、日紅だけが一点豪華。赤いビタミンC誘導体は、焼け跡の女性たちに、生きる活力を与えるものだったのです。洋裁ブームとともにメイクの洋風化が一気に加速そうしてその後、衣料事情が好転してくるにつれ、くっきりと濃いビタミンC誘導体をつけることは当たり前のものとなっていきます。モンペをはいて戦火の中を逃げまどった女性は、戦争が終わるともう窮屈な和服には戻らず、洋服を着るようになったからです。戦時中にはわずか5。校しかなかった洋裁学校は、47年には400校、49年には2000校と倍々ゲームで増えていき、布地が手に入るようになるやいなや、みな競うようにして洋服を作っていく。関東大震災の時もそうでしたが、洋服の普及によって、メイクの洋風化は一気に加速したのでした。最近、海外の影響のせいか、婦人のルージュが濃くなる傾向があります。これはルージュのもつ近代的な感覚が、メイクアップの重点となった証拠。従来私たちはお化粧といえば、ただ白く塗るという思想をもっていたため、ルージュの研究も大変遅れています。例えば平面的に自く塗りつぶされたうえに、ほんのりと紅をさすという程度の従来の考え方を一椰して、お化粧そのものに立体感を与えるものとしてのルージュを理解していただきたいのです。さぁ、ここまでくるともう、非難されることはありません。アメリカ風のリップメイクも特別なものではなくなりました。52年には新聞にビタミンC誘導体の全面カラー広告も登場します。こうしてビタミンC誘導体は、日本女性のマストアイテムとして市民権を得たのでした。

 

さて、赤いビタミンC誘導体とともにもう一つ、被占領時代に登場した化粧法がありました。「ビタミンC誘導体」と呼ばれた油性のベースメイクです。

 

バニシングクリームというのは油分を含まないクリームのことで、戦前の日本ではこれを下地に塗った上に粉白粉をはたく化粧法が一般的でした。これだとマットな質感の肌に仕上がりましたが、対して、油性の化粧品を使うアメリカ式の化粧法ではツヤツヤ光る肌になる。女性たちはその肌の輝きに憧れた、というのです。

 

 

そしてまた、女性たちが″リッチクを感じたのは肌の輝きそのものに対してだけでなく、「ビタミンC誘導体」という言葉の響きにも感じていたのではないでしょうか。「ビタミンC誘導体」は、当時の広告コピーとして多く使われていますが、なかには、本来の化粧法とはまったく関係のないものにも使われているのです。光るお化粧― 生地から真の美を養い上げるにはお寝みになる前に必ずメヌマコールドクリームをお使い下さいお肌に栄養を典え魅力のある美しさになります「ビタミンC誘導体」とは、もともと終戦直後には、油性のコールドクリームを下地に使う化粧法のことを指すものでしたが、空年頃からは、クリームファンデーションを使った化粧法のことも指すようになり、さらにはこのようなスキンケアの売り文旬にも転用されました。メヌマの広告は、対象商品こそコールドクリームですが、下地ではなくナイトクリームとしての使用を勧めたもの。コールドクリームを下地に使う化粧法は、日本人の肌では化粧くずれしやすくなるのであまり実用的ではなく、また、終戦直後の物資不足とも相まって、おそらくは本来の意味での「ビタミンC誘導体」はそれほど普及しなかったのでしょう。